ホーム > インフォメーション > 特別寄稿 | 円熟の指揮者ゼッダの音楽にいつも若々しさが漲る理由

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2014年5月12日(月)



 86歳のゼッダだが、いわゆる“円熟の”という形容がしっくりこない。おそらく本人にも、自身が高齢だという自覚がないのではなかろうか。昨年9月、東京フィルの定期演奏会に現れなかったのも、医師に来日を止められたからだと聞けば、健康状態を憂慮したくもなろうが、むしろ真相はその逆だと言っていい。


 昨年8月23日の晩、私は中部イタリアのペーザロにあるロッシーニ劇場にいた。この町で毎夏開催されるロッシーニ・オペラ・フェスティバルの最終日、そこで演奏されたオペラ・セリア『湖の女』の指揮者が芸術監督のゼッダだったのだが、アクシデントに見舞われた。颯爽たる足取りで指揮台に上がると、いつものように全身を大きく動かしながら音楽を紡ぎはじめたが、1時間半ほどを要する第1幕があと少しで終わるところで脱水症状を起こし、演奏は中断されてしまった。酷暑の中、黒い厚手の燕尾服を着こんでの激しい指揮は老齢でなくともこたえるに違いない。ところが、しばしの休憩ののち、上着だけ脱いで指揮台に戻り、少しも身振りが小さくなることなく全曲を振り切った。しかも、この作品を書いた27歳当時のロッシーニの息づかいそのままであるかのように、活き活きとみずみずしく。


 ゼッダを戴いた定期演奏会は、その翌月だったのだ。むろん、本人はなんのためらいもなく来日する気だったのだが、しばらく血圧が下がらなかったため、医師が大事を取って飛行機に乗るのを控えさせたという。


 ゼッダの手になる音楽は、いつもみずみずしい。ダイナミックなのに細部まで配慮が行き届き、シャープなのにやわらかい。たとえば、フィギュアスケートの羽生結弦選手の演技のように(ただし、4回転ジャンプで転ばなかったときの)、ひとつひとつの音の動きはしっかりと地に足がつきながら、音の流れは軽やかに浮遊し、音楽が有機的な生命体のように躍動を始める。事実、たいていの若い指揮者によるよりも、ゼッダの演奏のほうがはるかに若々しいのである。だが、片や19歳で片や86歳。いったいどうして、86歳の手になる音楽にこれほど若さが漲るのだろうか。


 私が思うに、3つの理由がある。ひとつは音楽、とりわけロッシーニへの天衣無縫なまでの愛である。その作品の美しさについて語るとき、老齢のマエストロの顔は常に、雑木林で大きなカブトムシを見つけた少年のように邪念のない笑みを輝かせる。続いて、知性と造詣。ロッシーニ・ルネサンスを牽引した音楽学者として、また、多くのロッシーニ作品の校訂者として、自身が恋焦がれる音楽の成り立ちから生まれた時代の空気までを知悉しているので、解釈がぶれない。そして最後に、精神および肉体の若さが挙げられる。顔だけを見れば老人なのだが、颯爽と歩く姿に老人臭は微塵も感じられない。ゼッダはいつでも目一杯のスケジュールをこなしているが、本人いわく、そうして心と身体の張りを維持しているのだそうだ。


 すなわち、音楽への愛情だけでは、みずみずしい音楽は奏でられない。ゼッダには、愛する音楽のみずみずしさを確信するたしかな知性と知識があり、かつ、それを若々しく演奏し続けるに足る精神と肉体の若さを維持している。だから、巷間言う円熟味とは違った味わいを醸すのだが、実は、音楽の若さを支えているのは知性の円熟でもあるのである。


 その知性は、今回の選曲の間にも垣間見える。ロッシーニの作品としては、イタリア・オペラの集大成として書かれた『セミラーミデ』序曲、最後のオペラ作品である『ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)』そして、オペラの筆を折ってのちのカンタータ『ジョヴァンナ・ダルコ(ジャンヌ・ダルク)』と、作曲家の節目の作品が選ばれている。ソリストにも手抜きがない。『ジョヴァンナ・ダルコ』を歌うテレーザ・イエルヴォリーノは、高度なアジリタのテクニックと高い音楽性、そして艶のある深い声を兼ね備えたメゾ・ソプラノの逸材で、こちらは25歳とは思えない完成された歌を聴かせる。


 また、交響曲第3番が演奏されるシューベルトはロッシーニより5歳年下で、この世を去ったのは『ギヨーム・テル』が上演される前年。つまり、ロッシーニがオペラ界の寵児であった時代に活躍し、ロッシーニと同様、ロマン主義の世界に足を踏み入れることに躊躇し、ひそかにアルプスの南への憧憬を抱いていたといわれる。そしてモンテヴェルディやヴィヴァルディの校訂者としても名高いマリピエロには、同じ音楽学者、校訂者として、古典への敬意を忘れなかった作曲家への尊崇の念が込められているのではないだろうか。


 ロッシーニの音楽はよく、ピチピチとはねるシャンパンの泡に喩えられる。そして、ゼッダの紡ぐ音楽も、シャンパンのように爽快だが、その泡は熟練の醸造家の手になる最良のシャンパンのように、すっきりしているのにとろけるようにきめ細かい。愛と知性と若さによるそんな音が、このたびも会場に横溢するはずである。



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古典から現代へ、新旧イタリア音楽の邂逅。

第847回サントリー定期シリーズ
5月16日[金]19:00開演(18:30開場)
サントリーホール 大ホール
第848回オーチャード定期演奏会
5月18日[日]15:00開演(14:30開場)
Bunkamura オーチャードホール

指揮: アルベルト・ゼッダ
メゾ・ソプラノ: テレーザ・イエルヴォリーノ


(著者プロフィール)

かはら・とし/音楽ジャーナリスト、オペラ評論家。イタリア・オペラをはじめとする声楽作品を中心に取材および評論活動をし、音楽専門誌や公演プログラムなどに記事を執筆。声や歌唱表現の評価に定評がある。日本ミュージックペンクラブ会員。著書に『イタリアを旅する会話』。


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