インフォメーション
2015年10月5日(月)
『不死身のカッシェイ』モスクワ上演
今年4月より東京フィル特別客演指揮者に就任したミハイル・プレトニョフ
©RNO
2015年9月7日。ロシア・ナショナル管弦楽団(以下、略称RNO)創立25周年記念を兼ねた第7回RNO大音楽祭(グランドフェスティバル)がモスクワのチャイコフスキー・コンサートホールで開幕した。プログラム前半はリムスキー=コルサコフの『不死身のカッシェイ』演奏会形式、後半はストラヴィンスキー『火の鳥』組曲。チャイコフスキー・コンサートホールは決して音響のよいホールではないが、ソリストたちの圧倒的な声量と合唱・オケの細部にまでわたる配慮に感動し、2曲とも眼前に細かな情景が浮かぶほど音楽が饒舌だった。
私の席はいわゆる評論家エリアで、周囲は知り合いのロシア人評論家がずらり。彼らの噂話を逃すまいと耳をロバのようにしていたが、「プレトニョフはやはり天才だ」「こういう演奏を本番で出来てしまうのね」など絶賛の嵐だった。大音楽祭は9月26日まで開催され、全6回の公演中、プレトニョフは最初の2回に指揮者として、最後の2回にはピアノ独奏者として登場し、没後100年を迎えたスクリャービンのピアノ協奏曲と、最終日にはラフマニノフ・ピアノ協奏曲第2番を披露する。
音楽祭のチケットは売り出し初日に全て完売だったという。休憩中に話をした中年女性は、「プレトニョフが指揮するRNOのチャイコフスキー第4番を聴いた時から、演奏会はプレトニョフのしか行かなくなったわ」と熱く語る。彼女もそうだったが、ロシアの聴衆の大半は10代までに音楽学校に通ったことのある半プロのような人々で、皆よく知っている。そんな耳の肥えた聴衆が殺到するのが、プレトニョフの演奏会なのである。
ロシアのオーケストラ事情と音楽家プレトニョフ
RNOとともにチャイコフスキー・コンサートホールで
リハーサル中のプレトニョフ(2015年4月撮影)
RNOとはソ連末期の混沌とした経済状況の中、ソ連史上初めて民間資本により誕生したオーケストラで、そのイニシアティヴを取ったのがプレトニョフだった。25年前の1990年11月、当時の朝日新聞学芸部記者だった上坂 樹氏と共に、第1回演奏会準備中のプレトニョフとRNOを取材したのが、つい昨日のように想い出される。プレトニョフを慕って実に多くの優秀な音楽家たちが参集した様を目の当たりにして、改めて彼の人間性と音楽性の凄さを実感したものだった。
その後ソ連は1991年末に崩壊し、大スポンサーだった国家が消滅してから、音楽家たちの更なる過酷な試練が始まった。オーケストラ間の熾烈な団員引き抜き合戦、優秀な弾き手のギャラの高騰と一般団員との格差問題。雨後の竹の子のように楽団が、出来ては潰れを繰り返す不安定さ。大音楽ホールが4つしかないモスクワなのに、市内だけで30以上もの交響楽団が存在した時期もあった。音楽院を卒業しても仕事がなく、街頭演奏で日銭を稼ぐ者もあれば、音楽を捨ててバスの運転手になった者もいる。そんなロシアだから、25年間続けることがどれほど困難だったか、私たち日本人には想像もつかない。
プレトニョフはピアニスト出身ではあるが、作曲・編曲も手掛け、チャイコフスキー=プレトニョフの『くるみ割り人形』は高難易度ピースとしてピアニストたちのレパートリーに定着している。オーケストラ指揮者、オペラ指揮者としても第一級であり、RNO創設の他に音楽文化支援慈善団体や音楽祭の創設など、ロシア音楽文化発展のために多角的に取り組んでいる。実は現代ロシアにおいては、このような活動なら他にもやっている音楽家たちが何人もいる。たとえば、マリインスキー劇場のゲルギエフ。ロシア・ナショナル・フィルハーモニー交響楽団を創設したヴァイオリニストのスピヴァコフに、亡きロストロポーヴィチ。しかし彼らと異なるプレトニョフの最大の魅力は、こうした社会活動の輝かしい業績にあるのではなく、紡ぎ出す音楽そのものにある。前述の休憩時間でのロシア人女性の話にもあるように、「プレトニョフの演奏会」というだけで、ロシア中の音楽ファンは心をときめかせる。それは、1978年にチャイコフスキー・コンクールで優勝した時も、2015年の今も変わらない。
ピアニスト、プレトニョフ
東京オペラシティ コンサートホールにて(2014年10月)
©上野隆文
昨年春、ピアニストとして久々に日本公演を行った。ツアーの最後は5月30日津田ホール。これはクローズド演奏会で、首都圏のピアノ関係者のみが招待され、客席はさながらピアニスト祭状態だった。そんな異様な空気の中、プレトニョフは最初の1音からプロ集団の聴衆全員を惹き付け、弾き古されたシューマンとベートーヴェンの定番曲たちが全く新しい顔を見せてくれたのだ。こんな演奏会、現代ではプレトニョフにしかできない。作曲家の構築性と指揮者の冷静な論理性と、ピアニストの高度な技巧を持ち合わせた彼だからこそ、可能なのである。[しかも気むずかしくてオタクで、猛烈な変人!彼の変人ぶりについてはまたの機会に譲るとして、]今日は指揮者として、プレトニョフは私たちに音楽の新たな世界を開いてくれるだろう。
(2015年9月8日モスクワにて)
一柳 富美子(ひとつやなぎ・ふみこ)/ロシア音楽学
東京芸術大学講師。ロシア音楽研究の第一人者。ロシアオペラ・声楽・ピアニズムに特に造詣が深い。ロシア音楽研究会主宰。ロシアン・ピアノ・スクールin東京総合監修。研究・執筆、声楽指導、音楽通訳・翻訳・字幕を手掛け、邦訳した大曲だけでも50を超える。
【当日券あり】S席¥10,000 A席¥8,500 学生¥1,000
10月9日[金]19:00開演(18:30開場)
東京オペラシティコンサートホール
指揮 : ミハイル・プレトニョフ
カッシェイ(テノール): ミハイル・グブスキー
カッシェイの娘(メゾ・ソプラノ): クセーニャ・ヴャズニコヴァ
美しい王女(ソプラノ): アナスタシア・モスクヴィナ
イヴァン王子〈バリトン〉: ボリス・デャコフ
嵐の勇士(バス): 大塚博章
合唱:新国立劇場合唱団
リムスキー=コルサコフ/歌劇『不死身のカッシェイ』
<演奏会形式/ロシア語上演/字幕付>
左からミハイル・グブスキー、クセーニャ・ヴャズニコヴァ、アナスタシア・モスクヴィナ、ボリス・デャコフ、大塚博章