ホーム > インフォメーション > [特別寄稿] 大ヒットドラマ「わたし、定時で帰ります。」 小説家・朱野帰子が語るオーケストラの愉しみ

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2019年7月12日(金)



 2019年上半期にTBSで放送され、「働き方改革」の波に揉まれる現役世代を中心に大きな共感を呼んだドラマ「わたし、定時で帰ります。」。社会問題に斬り込みつつ、さまざまな価値観をもつ個性的な登場人物たちが一丸となって問題に取り組む人間模様もまた作品の魅力でした。原作の小説家・朱野帰子さんは、自身の会社勤めの経験と、なんと学生オーケストラでの経験が創作に生きていると語ります。



   朱野 帰子(齋藤幸子撮影)

 オーケストラファンの皆さま、こんにちは。東京フィルの事務局に勤める大学の後輩に「大学オーケストラにいた頃のことを書いてほしい」と頼まれ、この原稿を書いています。テーマは「若き日の私はなぜオーケストラにはまったか」。


 私は三歳からピアノを習っていました。母が見つけてきたのはとても厳しい先生でした。音楽大学を舞台にした漫画『のだめカンタービレ』で、主人公ののだめが最初に通ったピアノ教室の先生は、感情が高ぶると生徒を叩く人でしたよね。その恐怖のせいで、のだめはプロのピアニストをめざすのを嫌がります。私がついた先生も同じで、厳しい言葉しかかけない完璧主義者でした。一つでも音を間違えばマルはもらえない。結局、小学校卒業までバイエルをやり続け、ピアノ教室に行く前はお腹が痛くなりました。そんなに怖いくせに、練習嫌いだった私も悪いのですが。


 ただ、クラシック音楽は好きでした。とりわけオーケストラが好きでした。かといって、この文章を読んでおられる皆さんのように、純粋なファンかというと、それも違いました。私が心を惹かれたのは、モーツァルトの『魔笛』や、ホルストの『惑星』など、壮大な物語を想像させてくれる楽曲でした。練習が嫌いだったのにもかかわらず、高校と大学、あわせて7年間という時間を、ヴィオラを弾くことに注ぎこんだのは、オーケストラが紡ぐ壮大な物語性の中に身を置きたかったからです。ワーグナーの『ニーベルングの指環』に出会った時は衝撃的でした。コンサートミストレスに頼まれて、この物語の解説を団内誌に書くこともしました。楽器の練習そっちのけで、大学の図書館で同作に関する分厚い研究書を読みこみもしました。


 オーケストラの魅力はもう一つあります。キャラクターの宝庫だということです。私のいた大学オーケストラでは1学年に40人以上の団員がいました。自分が1年生だった頃の上級生や、4年生だった頃の下級生までを含めると、300人以上の人と関わることになります。初めて出番をもらって張り切ったり、自分だけ飲み会に誘われなかったと落ちこんだり、そんな人間模様を300人分見られるというのは贅沢な経験でした。大学オケはアマチュアですから演奏技術が拙い人もいます。それでいて、「なぜ自分の出番は少ないのか」と不満を持っていたりするので、誰かが説明に行かなければならない。だけど、たとえば音程が悪いと気づいていない人に音程が悪いと指摘することほど難しいことはない。どう伝えたらいいか、と首席奏者のほうが本人より深く悩みこんでしまう。そんなドラマがそこかしこにありました。


組織とそこで働く人々を描いた大ヒットドラマ
「わたし、定時で帰ります。」(原作小説表紙)


 決して、全員の仲がいいわけではない。完璧な人もいない。それでも人間たちが一つの場所に集まって、なんとか一つの音楽を作り出す。本番が終わってもめでたしめでたしではない。次の本番に向けて、また張り切ったり落ち込んだりが始まる。そんな人間たちの営みを見ているのが、私は楽しかったのだと思います。


 先日、編集者さんに「朱野さんは組織を書くのが好きですよね」と言われました。たしかにそうかもしれない。私は自分の小説に出てくる登場人物は全員主人公だという気持ちで書いています。その感覚はオーケストラにいた頃に生まれ、会社に就職してから強くなっていったのでしょう。


 結局、小説のことばかり書いてしまいました。最後になぜ私がヴィオラを選んだのか書いておきましょうか。オーケストラは全員主役、ではありますが、私は主役になりたいと思ったことがありません。個性が強い主役たちを引き立てて、アンサンブルという物語を成立させることに腐心したい。ヴィオラやってる人って作家気質の人が多いのかもしれませんね。だから、メロディを弾かせてもらえることが少なくても怒らないんだと思います。





朱野 帰子(あけの・かえるこ / 小説家)

 東京都生まれ。2009年『マタタビ潔子の猫魂』で第4回ダ・ヴィンチ文 学賞大賞を受賞。2013年『駅物語』がヒット、2015年『海に降る』が連続ドラマ化される。2018年 『わたし、定時で帰ります。』、2019年続編『わたし、定時で帰ります。ハイパー』と合わせてTBSド ラマ化、大きな話題となる。近刊に『対岸の家事』『会社を綴る人』『くらやみガールズトーク』。高校・ 大学時代、学生オーケストラでヴィオラを演奏していた。


<2019年上半期、大ヒットドラマ原作小説>

新潮文庫「わたし、定時で帰ります。」

朱野帰子/著 新潮社刊 ¥637(本体¥590)

「絶対に残業しないと心に決めている会社員の結衣。時には批判されることもあるが、彼女にはどうしても残業したくない理由があった。仕事が最優先の元婚約者、風邪をひいても休まない同僚、すぐに辞めると言い出す新人。様々な社員に囲まれて働く結衣の前に、無茶な仕事を振って部下を潰すという噂のブラックな上司が現れて――。」

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