今年2月に逝去された東京フィル名誉指揮者・マエストロ大町陽一郎。1960年代、常任指揮者として東京フィルの一時代を築いてくださいました。
東京フィルが昭和音楽大学の前身「東京声専音楽学校」で練習を行っていたその当時、オーケストラは、音楽界は、どのような時代の息吹の中にあったのでしょうか。
2011年にその稀有な思い出の一片をお話しいただいたインタビューより、初出時には紙面の関係からご紹介できなかった、貴重な談話も含めてお届けします。
取材・文=岩野 裕一
インタビューは2011年9月
に行われました
人生というものは、ほんのちょっとした偶然が大きな変化をもたらしたり、思いもよらなかったご縁が生まれたりするものです。私とカール・ベーム(Karl Böhm, 1894-1981。オーストリアの指揮者)先生との出会いも、まさに偶然のなせるわざでした。
ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場に近いホテル、フィヤーヤーレスツァイテン(Vier Jahreszeiten)に滞在中だったベーム先生を私が最初に訪ねたのは、1956年のことでした。このとき私は、日本フィルの常任指揮者だった渡邉暁雄先生から託された契約書を携え、買ったばかりのフォルクスワーゲンの新車に乗って、留学先のウィーンからはるばるミュンヘンに向かったのです。渡邉先生は私が芸大で教えを受けた恩師であり、この年に創立したばかりの日本フィルに世界的な指揮者を呼びたいと考えた先生は、ベーム先生に白羽の矢を立てたのでした。
昼前にホテルを訪ねた私が、ロビーで先生に面会していた矢先のことです。ベーム先生に至急電話に出るよう呼び出しがあり、いったん中座した先生は真っ赤な顔をして私のところに戻ってきました。いったいどうしたのかと聞くと、
オーストリアの巨匠指揮者、
カール・ベーム
「大変だ! 今晩6時半からデュッセルドルフで『ドン・ジョヴァンニ』を指揮することになっているのだけれど、私の乗るはずだった午後の飛行機が悪天候で欠航するという連絡がいまあった。もう列車では間に合わないけれど、私はどうしても指揮したいのだ……」
とおっしゃるではありませんか。ミュンヘンからデュッセルドルフまではおよそ600キロです。困り果てた顔の先生を前にした私は、思わずこう提案しました。
「ベーム先生、私はきょうこのホテルに自家用車で参りました。よかったら私の車でデュッセルドルフまでお送りいたしましょうか?」
先生は、「ぜひ頼む」とすぐに荷物を積んで車に乗り込みました。もう時刻は正午になっており、アウトバーン(高速道路)があるとはいえ、標高差もある600キロの道のりを6時間で走破するのは容易ではありません。ただ、幸いなことに、このワーゲンの新車はベルリンに留学していた芸大の一級上の先輩、大賀典雄さんが何台もある中から選んでくれたもので、エンジンの調子が非常によかったんです(笑)。
東京フィル前理事長で永久楽友・名誉指揮者の大賀典雄氏
(1930-2011)。大町氏とは東京藝術大学で1学年違いだった
そう。1962年、大町陽一郎指揮東京フィルのブラームス
「ドイツ・レクイエム」ではソロ・バリトンとして共演しました
最高時速120キロのワーゲンで果たして開演時間に間に合うのか、私はまったく自信がありませんでしたが、とにかくずっとアクセルを全力で踏みっぱなしで走り続けました。そしてこの道中で、ベーム先生からたくさんの有意義な話を聞くことができたのです。それはフルトヴェングラーなど過去の巨匠のことであったり、この曲のこの部分はどう指揮したらよいのかといった実際的なことであったりと、非常に多岐にわたるものでしたが、私が指揮者として必要なことは、すべてこのデュッセルドルフへの車中で学んだといっても過言ではないほどでした。
ベーム一家との交流の記録。カールハインツ・ベーム
(子息)、テア・ベーム(夫人)、カール・ベームらの
サインがみえる(大町氏所蔵、2008年撮影)
そして午後6時頃、開演30分前にデュッセルドルフの歌劇場に着いたとき、インテンダント(支配人)以下、劇場の幹部がずらりと並んで私たちの到着を待ち構えていたのには驚きました。このときの演奏は私も客席で聴き、実に感慨深いものがありましたが、公演がはねるとベーム先生が私のとことにやってきて、「私の生涯できょうほど幸せなことはなかった。ぜひお礼をしたいので、欲しいものがあれば何でもプレゼントしよう」とおっしゃってくださったのです。そこで私は、「先生、私に欲しいモノはありません。ただ、ぜひ指揮のレッスンを受けたいのです」と入門を願い出ると、「それなら心配ご無用。いくらでも教えてあげるから、私の自宅にいらっしゃい」と快くお引き受けくださいました。このことをきっかけに、ベーム先生が亡くなるまで私は家族ぐるみのお付き合いをさせていただくことになるのです。
ベーム先生のご自宅はウィーンにありましたが、広壮な邸宅にはうっそうと木が繁る庭と大きな池があり、こういう環境からあの重厚なドイツ音楽が生まれてくるのか、と思ったものです。先生はレッスンを通じていろんなことを教えてくださっただけでなく、私のコンサートにも足を運んでくださいました。
1963年、東京フィルの練習場があった
「東京声専音楽学校」を、
ベルリン・ドイツ・オペラを率いて
来日中だったカール・ベーム氏が訪れました
留学を終えた私が、東京フィルの常任指揮者に就任することになったのをベーム先生はとても喜んでくださって、「いつか必ず、お前のオーケストラを見にいってあげよう」と約束してくださいました。そしてその約束は、1963年秋に先生がベルリン・ドイツ・オペラと初来日した際に果たされます。北新宿の東京声専音楽学校、通称「声専」の中にあった東京フィルの練習場に先生が来てくださったこのとき、緊張していたのは指揮台の上にいた私だけだったかもしれません。というのも、楽員は誰ひとりとしてベーム先生のことをよく知らなかったからです(笑)。
東京フィルは、戦前からずっとマンフレート・グルリット先生が指揮しており、戦後はイタリアからニコラ・ルッチ先生を招くなど、外国人指揮者とずっと仕事をしてきたので、ベーム先生を見ても驚かなかったのでしょう。ベーム先生のほうは、おんぼろの練習場を見てさぞかし驚いたでしょうけれど(笑)。
(Part2へつづく)
Yoichiro Omachi, honorary conductor of the Tokyo Phil.
1931年、東京に生まれる。1954年東京藝術大学音楽学部作曲科卒業。在学中、渡邊暁雄、クルト・ヴェスに指揮法を学ぶ。同年ウィーン国立アカデミー留学、スワロフスキーの許で指揮法を学ぶ。1956年指揮科を卒業後は、カール・べーム、ヘルベルト・フォン・カラヤン、フランコ・フェラーラに師事し、60年に日本フィルを指揮して帰国演奏会を開き成功をおさめた。61年より10年間、東京フィルの常任指揮者としてその黄金時代を築く。
一方、オペラの指揮者としても二期会や藤原歌劇団などでオペラ、オペレッタの指揮も数多く行う。1968年からはドルトムント市立歌劇団の専属指揮者としても数多くのオペラ、オペレッタ、バレエ、ミュージカルの公演に従事し、貴重な体験を積む。指揮した外国の主要なオーケストラはベルリン・フィル、ウィーン交響楽団等多数に及び、また、オペラ指揮者としては、ベルリン国立歌劇場、プラーハ・スメタナ国立歌劇場に客演するなど、シンフォニーとオペラの両面で活躍している国際的指揮者。
1980年2月、日本人として初めてウィーン国立歌劇場に登場。『バタフライ(蝶々夫人)』を指揮して絶賛を博す。また、8月にはクリーヴランド管弦楽団を指揮してアメリカにデビューした。1982年より84年にかけてウィーン国立歌劇場の専属指揮者として、オぺラ、バレエの公演を指揮した。
1988年より2年間、ケルン日本文化会館館長として、日独文化交流に尽くした功績により1992年春、ドイツ連邦共和国功労勲章「大功労十字」を授与された。1992年10月には日中修交20周年記念公演として、上海歌劇院より招かれて、「トゥーランドット」の中国語による上演を3回指揮した。1995、96年には、北京中央歌劇院によって、北京でのイタリア語による初演を行い、同歌劇院より名誉芸術顧問に任命される。1996年、日本人初のウィーン市名誉ゴールド・メダルを受賞。著書には、講談社刊「クラシック音楽へのすすめ」がある。ドイツ・ヨハン・シュトラウス協会名誉会員。東京藝術大学名誉教授。
2022年2月、逝去。