ホーム > 東京フィルについて >  指揮者 > [追悼特別記事] 大町陽一郎氏が語った、指揮者カール・ベームの思い出と東京フィルとの時代(2)



1961年4月「第58回定期演奏会」大町マエストロの
常任指揮者就任披露公演のプログラムより



 自分で申し上げるのもおこがましいかもしれませんが、1960年に私が東京フィルの常任指揮者になってから、オーケストラは人気も実力もうなぎ登りでした。それまでの定期演奏会といえば、2000人以上入る日比谷公会堂に、お客さんがわずか200人といったこともあったほどで、事務局長だった青島俊夫さんに「こんなに儲からないのだったら、いっそやめてしまったらどうですか?」と言ったら、「がらがらであろうと日比谷で定期を続けることが重要であって、これが我々の精神なんです。定期の赤字は労音(全国勤労者音楽協議会)の公演で穴埋めします」と言われてしまいました。でも、私の考えは違います。いくらいい音楽をしても、まずお客さんに聴いてもらわないと先が続かないし、少しでも儲かったなら楽員さんの待遇をよくすることに使うべきではないか。だから、定期公演を満員にするのが常任指揮者の使命なのだと心に決めました。


ウィーンの写真館で撮ったというこの写真が
東京フィルの宣伝ポスターを飾り、東京文化
会館での定期演奏会は大入り満員となったそう


 そこで私が力を入れたのが、宣伝です。それまで駅に一枚ずつ貼っていた演奏会のポスターを、自分で小田急線の各駅に足を運んで駅長さんにお願いして、一枚ではなく何枚も目立つ場所に貼ってもらうようにしました。デザインも、それまでの文字ばかりの地味なものではダメだと思ったので、私の写真を大きく使った大胆なものに変えました。ウィーンの写真館で撮った、チロリアンハットをかぶった私の写真は人目を引くもので、「あれ? これはいったい何のポスターなんだろう? ああ、オーケストラの宣伝か」と思ってもらえればしめたものです。駅だけでなく、商店街の自転車屋さんやら喫茶店やら、あちこち自分で歩き回ってはポスターを貼ってもらいました。最初のうち、事務局の人たちは「そんなことをしたって……」と冷淡でしたが、私自身が広告塔になって動くとチケットがどんどん売れていくのを見て、ようやく「思い通りにやってください」と言ってくれるようになりました。
 さらにその頃、私がドイツ人の妻と結婚したことが話題になっていたので、私は夫婦でいろんなマスコミに出ることで東京フィルのPRにつとめました。定期演奏会に来てくださったお客様の中には、ひょっとしたら私の妻を会場でひと目見たいという方もいらっしゃったかもしれません(笑)。でも、きっかけはそれでもいいのです。オーケストラは、聴いてもらわなければその良さは伝わりませんから、まず会場


大町氏の国際結婚を報じる新聞記事
(1960年10月11日東京新聞より)


に来てもらうことが大切なのです。こうして東京フィルの定期演奏会は、本当に大入り満員となりました。
 満員になれば楽員も張り切って演奏するので音が変わってきますし、お客さんのほうも満員だと気分がいいので、次のコンサートも行ってみようかということになる。1961年に東京文化会館が開館して、東京フィルも定期演奏会の会場を日比谷から上野に移しました。日比谷よりさらに大きな上野の文化会館を満員にするのは容易なことではありませんでしたが、のちに東京都が新しいオーケストラ(東京都交響楽団)を創設した際に私が招かれたのは、東龍太郎知事の「文化会館を満員にできる指揮者を呼べ」という鶴の一声が決め手だったそうです。
 その後、私はヨーロッパに拠点を移したので、東京フィルのポストを離れましたが、1999年からはドイツ時代の先輩だった大賀理事長の願いを受けて専任指揮者となりました。今年、東京フィルは創立100周年を迎えたわけですが、私はその長い歴史の半分以上を指揮者として共に過ごしてきたわけです。
 いまでは東京フィルも本当に立派なオーケストラになりました。私がかつてウィーンでベーム先生から学んだ西洋音楽のエッセンスが東京フィルに伝わり、100周年を祝う今回の演奏会でウィーンゆかりの作品を指揮できることは、何物にも代えがたい喜びです。(了)
(2011年9月27日・談/初出:2011年10/11月定期演奏会プログラム)








東京フィル100周年にあたる2011年には「第50回午後のコンサート」に登壇し、ベーム氏からうけついだウィーンゆかりの作品を取り上げました。
1973年東京フィルの初めての海外公演(東南アジア4か国・7公演)もマエストロ大町の指揮で実現するなど、50年余の間、東京フィルの歴史を共に作ってくださいました。謹んでご冥福をお祈りいたします。




岩野裕一(いわの・ゆういち)/1964年東京生まれ。上智大学大学院文学研究科新聞学専攻(博士前期課程)修了。株式会社実業之日本社代表取締役社長。社業のかたわら、日本のオーケストラを中心に執筆活動を続けている。主な著書に『王道楽土の交響楽 満州――知られざる音楽史』(第10回出光音楽賞受賞)、『日本のピアノ100年』(前間孝則氏との共著、第18回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞受賞)など。



大町陽一郎 東京フィル名誉指揮者
Yoichiro Omachi, honorary conductor of the Tokyo Phil.

 1931年、東京に生まれる。1954年東京藝術大学音楽学部作曲科卒業。在学中、渡邊暁雄、クルト・ヴェスに指揮法を学ぶ。同年ウィーン国立アカデミー留学、スワロフスキーの許で指揮法を学ぶ。1956年指揮科を卒業後は、カール・べーム、ヘルベルト・フォン・カラヤン、フランコ・フェラーラに師事し、60年に日本フィルを指揮して帰国演奏会を開き成功をおさめた。61年より10年間、東京フィルの常任指揮者としてその黄金時代を築く。
 一方、オペラの指揮者としても二期会や藤原歌劇団などでオペラ、オペレッタの指揮も数多く行う。1968年からはドルトムント市立歌劇団の専属指揮者としても数多くのオペラ、オペレッタ、バレエ、ミュージカルの公演に従事し、貴重な体験を積む。指揮した外国の主要なオーケストラはベルリン・フィル、ウィーン交響楽団等多数に及び、また、オペラ指揮者としては、ベルリン国立歌劇場、プラーハ・スメタナ国立歌劇場に客演するなど、シンフォニーとオペラの両面で活躍している国際的指揮者。
 1980年2月、日本人として初めてウィーン国立歌劇場に登場。『バタフライ(蝶々夫人)』を指揮して絶賛を博す。また、8月にはクリーヴランド管弦楽団を指揮してアメリカにデビューした。1982年より84年にかけてウィーン国立歌劇場の専属指揮者として、オぺラ、バレエの公演を指揮した。
 1988年より2年間、ケルン日本文化会館館長として、日独文化交流に尽くした功績により1992年春、ドイツ連邦共和国功労勲章「大功労十字」を授与された。1992年10月には日中修交20周年記念公演として、上海歌劇院より招かれて、「トゥーランドット」の中国語による上演を3回指揮した。1995、96年には、北京中央歌劇院によって、北京でのイタリア語による初演を行い、同歌劇院より名誉芸術顧問に任命される。1996年、日本人初のウィーン市名誉ゴールド・メダルを受賞。著書には、講談社刊「クラシック音楽へのすすめ」がある。ドイツ・ヨハン・シュトラウス協会名誉会員。東京藝術大学名誉教授。
 2022年2月、逝去。

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