ホーム > インフォメーション > 5月定期演奏会のききどころ「生誕150年 特別客演指揮者ミハイル・プレトニョフが語るラフマニノフ その才能を見出し、育てた人々」

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2023年3月28日(火)

5月の定期演奏会では、生誕150年を迎える作曲家セルゲイ・ラフマニノフの生涯をたどって前・中・後期を代表する3作品を取り上げます。マエストロ・プレトニョフにお話を聞きました。





ラフマニノフ(右)とアレクサンドル・ジロティ(1863-1945)

プレトニョフ(以下、「」内) 「私の先生の先生はイグムノフといってモスクワ音楽院の先生でした。イグムノフ先生はアレクサンドル・ジロティというラフマニノフの従兄にあたる人の弟子でした。ラフマニノフをチャイコフスキーに会わせたりしたのもジロティです。ジロティはリストの弟子で、リストからも可愛がられたそうです」。




――ラフマニノフという人物をマエストロはどのようにご覧になりますか?


ミハイル・プレトニョフ(1957-)ⒸRainer Maillard DG
自身もピアニスト・作曲家・指揮者
の顔をもつマエストロ プレトニョフ

 「大天才だと思います。ピアニストとしても素晴らしいし、現役で活躍しているピアニストにとっては神様のような存在。ホロヴィッツ、ミケランジェリといった、私たちが大ピアニストとして仰ぐような人たちが、さらにラフマニノフを尊敬していました。ラフマニノフ同様、歴史上尊敬される音楽家は多くが作曲家・ピアニスト・指揮者の3つの要素を持っています。たとえばバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、リスト、ラフマニノフ、プロコフィエフ。一つの仕事に縛られずに仕事をできる人たちです。チャイコフスキーも指揮者としてはさほどでもなかったけれど自作を指揮しています。リムスキー=コルサコフも自作を指揮しています。それからバルトーク、ショスタコーヴィチも。得手不得手はあるかもしれませんが、3つの要素を兼ね備えているのがすぐれた音楽家なのかもしれません」。



――ラフマニノフのオーケストラ作品について


セルゲイ・ラフマニノフ
(1900年代初頭の写真)

 「ラフマニノフが若く、ピアノ曲だけを書いていたころはピアノのことだけ考えればよかったわけですが、曲を書いていくうちにいろいろな楽器の知識も増えていきました。ラフマニノフの初期のオーケストラ曲はあまり良い曲ではないという面があるのですが、それは楽器の特性やオーケストラの特徴を知らずに書いていたところもあったと思います。それが後期の作品になると楽器の特性もよくわかったうえで、それを生かして書いていると感じられるようになっていきます。ラフマニノフが若いころの作品は、経験を積んでいくうちに彼自身も考えなおして、何度も書き直している作品があります。最初のオペラ『アレコ』(1891年発表)もしばしば書き換えていたそうです」。



――ラフマニノフを育てた人々について教えてください。


門弟らに囲まれるズヴェーレフ。
左手から順に、サムエリソン、
スクリャービン、マクシモフ、ラフマニノフ、
チェルニャエフ、ケーネマン、プレスマン

 「チャイコフスキーは、ニコライ・ズヴェーレフ(19世紀ロシアのピアニスト、音楽教師)のところに住み込んで学んでいたまだ十二、十三歳のスクリャービンやラフマニノフと出会っています。ズヴェーレフはチャイコフスキーの友人だったので、チャイコフスキーがモスクワに来たときに家に招待して、教え子達の演奏を紹介しました。そこでスクリャービンとラフマニノフはチャイコフスキーに演奏を聴いてもらい、チャイコフスキーは人柄も良かったので「よく演奏できたね」と褒めたそうです。
 それからチャイコフスキーだけでなく、ジロティの存在が大きいです。ラフマニノフの従兄のジロティはチャイコフスキーと親しくしていて、チャイコフスキーが『眠りの森の美女』をピアノ版に編曲しなければならないとなったときに、ラフマニノフにやってもらおうと言って紹介したそうです。まだ若かったラフマニノフがその仕事を引き受けて編曲をしました。ジロティは人間としても、音楽家としても非常に才能のある方で、ニコライ・ルビンシテイン、アントン・ルビンシテインに音楽を学び、チャイコフスキーに音楽理論を学んだ。そのうちに、親戚筋の誰かが結婚したことによって、もともと友人だったジロティとチャイコフスキーは親戚にもなりました」。



――ラフマニノフは非常に高く評価されて交響曲第1番を書いたけれど大失敗し、ピアノ協奏曲第2番で復活した。その二つの作品は作風が大きく変化しているように思えます。


2月定期演奏会で聴かせたチャイコフスキーに続き、
5月はラフマニノフの生涯をたどります
©上野隆文

 「交響曲第1番の初演はグラズノフが指揮しました。うまくいかなかったので、作曲家としてもあまりよくできていないということで落ち込んだ。すごく沈鬱な時期があり、その後にピアノ協奏曲第2番を書きました。ラフマニノフは、交響曲第1番が自分でもうまくいっていないということをわかっているから、演奏することを生前誰にも許しませんでした。今はそんなことは関係なく取り上げられていますが。
 ラフマニノフは最初のオペラ『アレコ』が成功し、チャイコフスキーに高く評価された。当時の音楽界はこぞってラフマニノフを称賛しました。ですので、次の作品に期待が高まっていて、音楽界のしきたりなどもよく理解していたラフマニノフは、次もちゃんとした曲を書かなければならない、チャイコフスキーが評価してくれた音楽家としての立場をきちんと証明しなければならないと気負いがあったのだと思います。でも、ラフマニノフにはその頃はまだ大曲を書くような知識や能力が欠けていたのでしょう。まだ知識も経験も全く不足している中で、期待と気負いも非常に大きかった。ラフマニノフは短い期間に書かなければと焦って書いて、自分の思いはこめたのだけれど曲として人を納得させるようなものではなかった。ですので、批評も非常に厳しいものがあって、ラフマニノフにとってはショックだった。彼は気負ってしまったのだろうと思います。周りが期待したりしなければよかったんです」。



――『死の島』について教えてください。


『死の島』はアルノルト・ベックリンの
同名の絵画による銅版画から着想を得て書かれた

「『死の島』は、精神状態も落ち着いて、大人として成熟し、交響曲第2番を書いた後にドレスデンで書いた作品です。若い時の期待感や世間の評価に応えようという思い込みがなくなってきて、自分のうちと外が一致してきた頃の作品です。アルノルト・ベックリンの作品をもとに書きましたが、原画ではなくモノクロのリプロダクションを雑誌で見たのだそうです。そこからインスピレーションを受けた。数年してスイスのバーゼルでオリジナルの絵をわざわざ見に行ったそうですが、ラフマニノフはそれを見て全然気に入らず、オリジナルのカラーの絵を見ていたらあの曲は書かなかったと言ったそうです。私自身は良い絵だとは思いますが。当時の雑誌はモノクロの印刷しかできなかったのでそうなったのですが、タイトルそのものが死の島というくらいなので、いずれにせよ、そう明るい作品にはならないでしょうね。ラフマニノフは作品の中で“死のテーマ”を使っていて、グレゴリオ聖歌のディエス・イレ(怒りの日)のメロディがたびたび出てきます。死のテーマ、怒りの日。逆に交響曲第2番は明るい気持ちになる作品で、まったく違ったイメージの作品です」。



――ラフマニノフと批評について

「ラフマニノフがアメリカに行ってからも、当時はあまり音楽評論が確立されておらず良い音楽評論家もいなかったので、ラフマニノフが書くものを2流3流の作品だという人もいたようです。ピアノ協奏曲第4番も駄作だと。ラフマニノフは書き直しましたが、それでも駄作だと言う人がいた。3回目の書き直しをして、それ以降は書き直しをしていません。
 交響曲第1番の失敗は彼にとって深い傷になり、生前は他人に演奏させませんでしたし、他人がこの曲の話題を出すのも嫌がりました。それでも、最後の作品『交響的舞曲』に彼は交響曲第1番のモティーフを忍ばせた。彼は『交響的舞曲』を書いているときにはもうこれが自分にとって最後の作品だとわかっていたのでしょうね」。



ミハイル・プレトニョフ ©上野隆文



5月定期演奏会 

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5月10日[水]19:00開演
サントリーホール
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5月12日[金]19:00開演
東京オペラシティ コンサートホール
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5月14日[日]15:00開演
Bunkamura オーチャードホール

指揮:ミハイル・プレトニョフ
(東京フィル 特別客演指揮者)


ラフマニノフ/幻想曲『岩』
ラフマニノフ/交響詩『死の島』
ラフマニノフ/交響的舞曲
(ラフマニノフ生誕150年)


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主催:公益財団法人 東京フィルハーモニー交響楽団
協力:Bunkamura(5/14公演)

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