インフォメーション
2024年4月23日(火)
ジュゼッペ・ヴェルディ
(1813-1901)
ウィリアム・シェイクスピア
(1564-1616)
いよいよ『マクベス』が登場する。一昨年(2022年)から『ファルスタッフ』(1893年初演)、『オテッロ』(1887年初演)と、ヴェルディが文豪シェイクスピアの戯曲をもとに作曲したオペラを、高いレベルで上演してきたチョン・ミョンフンと東京フィル。前の2作が円熟の筆で書かれた晩年の作品だったのに対し、『マクベス』(1847年初演)はヴェルディが33歳で手がけた、いわば若書きの作品だ。しかし、半世紀にわたったこの巨匠の作曲活動のなかで、画期になった傑作だと断言できる。
ヴェルディは周知のとおり、環境や状況に翻弄される人間の異常と思える―だが、それが人間の本質と思える―心理を、音楽によって掘り下げた。作曲家が生涯追い求めたこのテーマは、じつは、すべて『マクベス』のなかに開花している。
むろん、マエストロ チョンは、それを存分に引き出せるという自信があって、このオペラを選んだに違いない。
『マクベス』なくして大ヴェルディはなかった
台本作家
フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ
(1810-1876)
敬愛するシェイクスピアをはじめて扱うとあって、ヴェルディには当初からただならぬ思い入れがあった。それは創作過程に顕著に表れている。
台本作家は、のちに『リゴレット』(1851年初演)や『ラ・トラヴィアータ(椿姫)』(1853年初演)の台本も手がけるフランチェスコ・マリア・ピアーヴェ(1810-1876)だったが、ヴェルディの台本執筆への介入は尋常ではなかった。
そもそも、シェイクスピアの戯曲をイタリア語の散文にしたのはヴェルディ自身で、幕割りやナンバーの原案までつくってからピアーヴェに渡している。さらには、その後もピアーヴェに「この悲劇は人間が創作した最高傑作の一つなのだから!」などと圧力をかけ続けた。納得がいく音楽を書くためにも、台本の構成と詩句にこだわったのである。
その姿勢はリハーサルが始まっても崩れず、気に入らない詩句が見つかると、友人のアンドレア・マッフェイに書き直させた。こうして思いどおりの台本にし、詩句にふさわしい品格を備えた、人間の本質をえぐる音楽にすべく、細部にまで徹底的な配慮を重ねた。
たとえば、冒頭(プレリュード)から木管でバグパイプを模した、表現主義的とさえいえる音を聴かせ、音の下降と不協和音で聴き手の耳に、これから描かれる世界の異常性が伝えられる。あるいは第4幕の、マクベス夫人が夢遊する場面(“Una macchia è qui tuttora!”)。拭えない血を拭おうとする夫人の朗唱が、不気味な音色のイングリッシュ・ホルンで導かれ、殺人を犯した強迫観念から逃れられなくなった夫人の心中が描きだされる。
ヴェルディは満を持してシェイクスピアに取り組んだ『マクベス』において、それまでに作曲した歴史劇をはるかに超える次元で、人間の内面を全方位的に照射するオペラを実現したのである。中期三部作に数えられる『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』(1853年初演)『ラ・トラヴィアータ』が、傑作であるのはまちがいないにせよ、それ以前におけるキャリアの画期が『マクベス』にあり、『マクベス』なくしてその後のヴェルディがなかったことは疑いない。
ヴェルディのねらいを実現できる歌手陣
フェリーチェ・ヴァレージ
(FeliceVaresi, 1813-1889)
初演時のマクベス夫人役、
マリアンナ・バルビエーリ=ニーニ
(Marianna Barbieri-Nini, 1818-1887)
だが、ヴェルディの細部にいたるこだわりは、すぐれた歌手抜きには完結しない。初演されたのはフィレンツェのペルゴラ劇場だが、同時に候補に挙がっていた『群盗』でなく『マクベス』が選ばれたのは、当時の第一級のバリトン、フェリーチェ・ヴァレージ(FeliceVaresi, 1813-1889)をこの劇場が確保しており、タイトルロールを任せられるとヴェルディが判断したからだった。
また、もうひとりの主役のマクベス夫人について、再演の際にヴェルディは、「しゃがれた暗い響きがほしい」と発言している。これは前述した木管やイングリッシュ・ホルンの異常な響きと同様、当時の常識であった美しい音を拒んでまでドラマを追い求めたことの証である。
ただし、誤解してはいけないが、ヴェルディは声を下品に響かせたかったのではない。夫人役には、小さな音符の連なりを敏捷に歌うアジリタの正確な表現から、メッザヴォーチェ(mezza voce。声量を落とし、半分の声で歌うこと)やピアニッシモなどの微妙な表現までを執拗に求め、品格を維持しながら人間の真実を浮上させようとした。画期的な人間ドラマだからこそ、いっそう細やかな表現が要求されたのである。
マクベス役
セバスティアン・カターナ(バリトン)
マクベス夫人役
ヴィットリア・イェオ(ソプラノ)
©Sergio Ferri
バンクォー役
アルベルト・ペーゼンドルファー(バス)
マクダフ役
ステファノ・セッコ(テノール)
マエストロ チョンが、こうしたヴェルディのねらいに忠実であろうとしていることは、キャスティングからもはっきりとわかる。タイトルロールのセバスティアン・カターナは、一昨年の『ファルスタッフ』でその力が伝わっていると思う。すでに20を超えるヴェルディの役を歌っているこのバリトンは、ベルカント・オペラに求められる品位と劇的な表現を両立させる術に長けている。
マクベス夫人役は、力強い声のソプラノによって押し出すように歌われることが多いが、それではヴェルディのねらいから離れてしまう。その点、ヴィットリア・イェオには、芯がある声を自在に制御する力がある。少し陰がある声もこの役にはおあつらえ向きだ。
バンクォーを歌うアルベルト・ペーゼンドルファーは、オーストリア出身のベテラン。魂の底から響かせるような、深い精神性をたたえた歌唱が魅力のバスである。マクダフ役のステファノ・セッコも端正で流麗な歌唱が特徴で、とりわけひたむきな表現がマクダフにぴったりだ。
『マクベス』は1865年、パリのリリック劇場で上演するために改訂され、現在は一般にその版が用いられる。ただし、原曲の基本的な構想は踏襲され、そのうえでオリジナルよりはるかに豊かに仕上げられている。ヴェルディが若き血潮を注ぎながらこだわり抜いた、力強く深い音楽世界は、改訂をへてマエストロ チョンの円熟との相性が増している、ともいえよう。
ヴェルディのねらいとマエストロチョンのねらいは、おそらく重なっている。結果として、権力という麻薬の恐ろしさが、衝撃と陶酔をともに強いる音楽体験をとおして、聴き手に深く伝わることになるだろう。
パリ、リリック劇場での『マクベス』1865年改訂版のスケッチより(第1幕第2場)
セバスティアン・カターナの題名役によるヴェルディ『ファルスタッフ』(2022年10月定期)は
マエストロ チョンの指揮と演出で上演され「第20回三菱UFJ信託音楽賞 奨励賞」を受賞 Ⓒ上野隆文
香原斗志(かはら・とし)/音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。
9月定期演奏会
9月15日[日]15:00開演
Bunkamura オーチャードホール
9月17日[火]19:00開演
サントリーホール
9月19日[木]19:00開演
東京オペラシティ コンサートホール
指揮:チョン・ミョンフン(名誉音楽監督)
マクベス:セバスティアン・カターナ
マクベス夫人:ヴィットリア・イェオ
バンクォー:アルベルト・ペーゼンドルファー(※)
マクダフ:ステファノ・セッコ
マルコム:小原啓楼
侍女:但馬由香
医者:伊藤貴之
マクベスの従者、刺客、伝令:市川宥一郎
第一の幻影:山本竜介
第二の幻影:北原瑠美
第三の幻影:吉田桃子
合唱:新国立劇場合唱団(合唱指揮:冨平恭平)
※当初の予定から変更となりました。
ヴェルディ/歌劇『マクベス』
全4幕・日本語字幕付き原語(イタリア語)上演
原作:ウィリアム・シェイクスピア『マクベス』
台本:フランチェスコ・ピアーヴェ
公演時間:約2時間45分(休憩含む)
1回券料金
SS席 | S席 | A席 | B席 | C席 | |
---|---|---|---|---|---|
チケット料金 | ¥15,000 |
¥10,000 |
¥8,500 |
¥7,000 |
¥5,500 |
※( )…東京フィルフレンズ、WEB優先発売価格(SS席は対象外)
主催:公益財団法人 東京フィルハーモニー交響楽団
助成:文化庁文化芸術振興費補助金(舞台芸術等総合支援事業(公演創造活動))| 独立行政法人日本芸術文化振興会
公益財団法人 三菱UFJ信託芸術文化財団(9/17公演)
後援:NPO法人日本ヴェルディ協会、日本シェイクスピア協会
協力:Bunkamura(9/15公演)